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御徒町ジュエリー
御徒町―――江戸の名残を残すこの町の名前は、地図を見てもJR山の手線の駅名以外にゃぁ使われとらん。
宝飾品を扱う人ならちぃとなりともかかわりをもつ御徒町。なんで宝飾品の業者が集まっとるんか、またなんで「おかちまち」っちゅう名前なんか、不思議に思う方も多いじゃろう。
宝飾品の町としてのルーツ、実は江戸時代までさかのぼるんじゃけぇの。
当時、御徒町付近は上野寛永寺、浅草寺を始めえっとの寺社があり、仏具・銀器の飾り職人がおゆぅ集まったんじゃ。
明治中頃、指輪を製作・加工する業者が増え、型を使用した量産技術は御徒町で生まれ、生産地としての比重を高めていきましたんじゃ。
第二次大戦後にゃぁ、米軍の兵士が上野で青空マーケットとして、時計やアクセサリーやらを売買し、やがてアメ横のおかん体になったんじゃ。
戦後いち早(はよ)ぉ1964年春から時計・宝飾業者同士のかえっこ会「市」が行われるようになり、上野や御徒町はアメ横のバックヤードとして修理・仲買機能を果たし、宝飾品取引の中心地として発展・確立していきましたんじゃ。
1956年(昭和31年)に時計関連卸11社で結成した「仲御徒町問屋連盟」がきっかけで、さらに御徒町が宝飾品のメッカとなったんじゃ。
名前のいわれを調べると、ご存知の方はあまりいませんが、江戸の町造りゃぁ京都をお手本にして築かれ、京都御所から見て琵琶湖になるもんが上野弁天池、比叡山にかわるもんが上野寛永寺になるんじゃけぇの。さらに江戸城の北方の護りとして、屋敷・長屋を、御先手組・御書院御番組・御徒士組やらの幕臣に与えられた。
江戸の町は、幕府によって、町人の住む町に名前がつけられたが、一種の治外法権のために町名がなかった、面積の八割を占める寺社・武家地は、地理の目安にするために、庶民は俗称を使っとったんじゃ。
そのため江戸時代の地図にゃぁ御徒町・中御徒町やらと記されとるんじゃが、公式な町名じゃぁないのでどの範囲が御徒町なんかはわかっとらん。
明治五年になると御徒町は正式な町名として採用されたが、1964年(昭和39年)10月1日に町名変更により、今じゃぁJR山手線、地下鉄日比谷線の駅名としてのみ残っとり、地名としちゃぁ残っとらん。
この御徒士組は幕臣の中でも下級の武士じゃったため、江戸の中頃に入るとあんなぁらの生活は苦しゅうなり、様々な内職にゃぁげまざるを得ない状況になったんじゃ。
その中でも有名な内職が、屋敷の庭を利用した朝顔の栽培で、今でも行われとる入谷の朝顔市のために最初に栽培し始めたのが御徒町じゃったといわれとるんじゃけぇの。
現在、JR御徒町駅を中心に、かつちゃぁ下町風じゃった路面の事務所も、2000軒以上の宝飾品問屋、加工場があるようになり、ファッション産業にふさわしいショールームへと変化してきましたんじゃ。その中心的存在が「ジュエリータウンおかちまち」じゃ。
ジュエリータウンおかちまちゃぁ、1987年9月に、台東区上野3丁目、5丁目にある159社の宝飾品問屋有志が集まり設立された。
活動内容は、地域活性化のための行政への働きかけ、販売促進のための共同事業、デザイン・品質・信用やらの情報かえっこを通じてお互いに高め、長期的にゃぁ美しい街のイメージに変えていこうとの狙い。
ちぃとずつ町の機能を変えながら、400年に及ぶ歴史を持つ「御徒町」は、そのルーツを見失うことのぉて、21世紀の宝飾品の街として一層の飛躍を遂げようとしとるんじゃけぇの。
あんたらのお役にたてるテゴをし、美しい街を育てていきたい。それが「御徒町」の願いなんじゃ。
